伝統を創造するってどういうこと?インドのカースト制度と日本の相撲!?

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「伝統」というと、「過去から連綿と続く物事」というイメージが強いと思います。しかしよくよく調べてみると、伝統の中には比較的最近になって新たに創造されたものがあることがわかります。これは一体どういうことでしょう?

スコットランドのキルト

スコットランドの伝統として最も有名なのは、タータンチェックのキルトです。これらは太古の昔からスコットランドに伝わる伝統であると、一般には信じられています。しかし実際は違います。キルトを発明したのは、トマス・ローリンソンというイングランド人なのです。

ローリンソンがキルトを発明したのは、1730年頃であったようです。溶鉱炉での仕事着として生み出されたこの新たな衣装は、スコットランド高地に住むアイルランド系の人々のみならず、スコットランド低地に住む人々の間でも評判となり、瞬く間に定着しました。

1745年にスコットランドで起きた反乱を鎮圧したイギリス政府は、翌1746年、反乱軍の中心となっていたスコットランド高地人の結束を弱めるために、高地地方の伝統的生活様式を禁止する法律を制定しました。その一環として、伝統的衣装の着用が禁止されたのですが、これに含まれていたのが、人々の間に定着して15年ほどしか経っていないキルトでした。この法律によって、キルトはほとんど見られなくなりました。

ところが、1778年に高地の貴族や役人が結成した「高地地方協会」の働きかけによって、1782年にこの法律が廃止されると事態は一変します。反英ナショナリズムの高まりの中で、それまで禁止されていたキルトが、スコットランドの栄えある「伝統」として中上流階級の人たちに注目されるようになったのです。

この流れを受けて、キルトをスコットランドの「伝統的衣装」と宣言したのが、1820年に設立された「エジンバラ・ケルト協会」でした。キルトをスコットランドの「伝統」としたのは、先のイギリス政府による禁止法と同じですが、イギリス政府がキルトを禁止したのとは反対に、協会はキルトの普及に努めたのでした。

以上のような過程を経て、キルトというスコットランドの「伝統」が「創造」されたのです。

インドのカースト制度

インドのカースト制度も、太古のインドから連綿と受け継がれてきたものだと思われがちですが、実はそうではありません。そもそも、「カースト」という概念が誕生したのは15世紀のことです。インドにやって来たポルトガル人が、ヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだのが始まりです。

ヴァルナとは、ヒンドゥー教社会を四層の種姓に分割する宗教的身分制度で、上から順にバラモン(僧侶)、クシャトリア(王族・武人)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)の4身分があります。ヴァルナの歴史はたいへん古く、紀元前12世紀に編纂されたヒンドゥー教の聖典「リグ・ヴェーダ」に、ヴァルナへの言及があります。

ジャーティとは、上下貴賎によって序列化された職業共同体で、その数は2,000とも3,000とも言われています。あるジャーティに属する者は、自分と同じジャーティの相手としか結婚できず、また子は親と同じジャーティに属します。ジャーティの歴史はよくわかっていませんが、紀元前15世紀頃に誕生したのではないかという説があります。

ヴァルナとジャーティは固定的な不平等や構造というよりも、運用原則とでもいうべきものでした。人がどのヴァルナやジャーティに帰属するかは流動的であり、異議申し立ての余地も残されていました。

しかしイギリスは、18世紀後半からインドを植民地化していく過程で、流動的だったヴァルナとジャーティを、固定的な「カースト制度」へと置き換えていきました。国勢調査や裁判を通じてカースト制度を法制化し、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、ありとあらゆる社会カテゴリーを、次々とカースト制度の中に取り込んでいきました。インドの人々は、政府が作り上げたカースト制度に基づいて次々に登録され、そしてその身分は、変更の余地ないものとして固定化されていったのです。

このように、カースト制度という「伝統」は、イギリスの植民地統治の方針として「創造」されたのです。

日本の相撲

日本の「国技」である相撲も、実は創造されたものと見ることができます。

相撲の起源としてよく語られるのは、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の「取組」です。しかしこの「取組」で展開されたのは主に蹴り技の応酬であり、足を使わない現在の相撲とは大きく異なっています。また全国各地では、古くから相撲神事が行われていますが、現在日本相撲協会が開催している大相撲の起源は、江戸時代以降に上方や江戸で始まった娯楽としての「勧進相撲」であり、神事とは直接関係ありません。

この勧進相撲ですが、明治時代になると、「脱亜入欧」つまり近代化の社会機運の中で、相撲は危機的状況に陥りました。相撲は「前近代的な旧弊」と見なされ、「相撲禁止論」が叫ばれるようになったのです。1871(明治4)年、東京府はいわゆる「裸体禁止令」を発布し、相撲も摘発の対象としました。

この危機を救ったのは明治天皇でした。明治天皇は相撲を見るのがとても好きだったのです。天皇の意を受けた伊藤博文の尽力により、1884(明治17)年に天覧相撲が実現しました。これにより、大相撲が社会的に認められるようになりました。

明治時代も後期になると、欧化政策の反動によるナショナリズムの勃興により、伝統的なものを求める風潮が生まれ、相撲人気は次第に高まってきました。1909(明治42)年には相撲専用スタジアムが完成し、「国技館」と命名されました。相撲が「国技」と呼ばれるようになったのは、これより後のことです。そして国技館の完成に合わせるように、力士の身なりも改められ、関取は大銀杏を結い、羽織袴で場所入りすることが義務付けられました。

翌1910(明治43)年には、行事の衣装が、武家の衣装だった裃袴から、神道色の強い烏帽子直垂へと改められました。さらに1931(昭和6)年には、土俵の上を覆う屋根が、神社の建築様式の一つである神明造となりました。こうして勧進相撲起源の大相撲に、「神事」としての装いが与えられたのです。
このように、私たちが昔からの「伝統」と考えている相撲の趣向は、その多くが明治以降に新たに「創造」されたものなのです。

伝統の創造と近代

伝統の創造は、近代的な制度やものの考え方、なかでも、国民国家や法治主義やナショナリズムなどと深いかかわりを持っています。スコットランドのキルトは反英ナショナリズムの高まりの中で「伝統」となっていったのですし、インドのカースト制度も、インドを近代的法制度によって統治しようという動きの中で「伝統」として固定化されていったものです。また日本の相撲も、ナショナリズムと深く結びつきながら「伝統」としての形を整えていったのです。

私たちが古くから続くと考えている伝統の多くは、近代化の過程の中で、何らかの目的を果たすために創られたものです。近代化を推し進めるために、あるいは近代化に抵抗するために、「伝統」は「創造」されるのです。

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